村上春樹の本はどれもそうと言えるかも知れませんが、読んだ者にしか理解できない、筆舌に尽くしがたい感覚を体験します。
「
ねじまき鳥クロニクル」は、主人公がFM放送を聴きながらスパゲティーをゆでているという、ごく日常的な風景から始まります。
そこに謎の電話がかかってきて、猫がいなくなるというささやかな事件が事の発端となります。
次々と謎めいた人物と主人公は関わりを持つようになり、先の読めない展開にぐいぐい読者を引き込んでいきます。
話が進んでいくうちに、物語はあらぬ方向へと向かい、ある日突然妻がいなくなる。
しかし説明されない理由の根底には何かただならぬ秘密が隠されている事に気付かされます。
一体それが何なのか、一体それが何を意味するのか。一体「ねじまき鳥」とはどんな鳥なのか……
読者は主人公と一緒に時が来るまでひたすら新宿の街の人々を見ながら、或いは井戸の底でじっと待たなければなりません。
そして時が経てば機会は突然やって来て、主人公の状況をがらりと変える。
第3部に至ると物語の視点が変わり、それは届いているかどうか分からない手紙であったり、誰かの頭に浮かんだエピソードだったりします。
その内に読者も主人公もそこで展開されている話が物語の「現実」に起きた事なのかどうか、何処が現実なのか判らなくなってきます。
しかし主人公はあくまで闘い、妻のクミコを取り戻す決意をする。
事実は真実ではないかも知れない。真実は事実ではないかも知れない。
しかし少しずつ、彼は彼なりの「真実」へと近づき、あくまでそれを信じてとうとう「真実」のある場所に辿り着く。
現実とも夢ともつかない意識の中で彼は「敵」と敢然と闘い、物語は「あらかじめそうなるべきだった」結末へと収束していきます。
最後には主人公に関わってきた人物は皆去っていき、残された主人公は独り静かに束の間の眠りにつく。
主人公がその後どうなるのか、何も暗示されることは描かれていません。
主人公の岡田トオル、クミコ、綿谷ノボル、笠原メイ、加納マルタ・クレタ、本田さん、間宮中尉、ナツメグとシナモン……
この物語で主人公と不思議な巡り合わせで出会う登場人物はどれも皆一癖も二癖もあり個性的ですが、彼らは皆運命とも言える一つの環で繋がれているのです。
私は特に「要領の悪い虐殺」で登場するナツメグの父の獣医のパーソナリティに惹かれました。
「あるいは世界というのは、回転扉みたいにただそこをくるくるとまわるだけのものではないのだろうか、と薄れる意識のなかで彼はふと思った。
その仕切りのどこに入るかというのは、ただ単に足の踏み出し方の問題に過ぎないのではないだろうか。
ある仕切りの中には虎が存在しているし、別の仕切りの中には存在していない――要するにそれだけのことではあるまいか。
そこには論理的な連続性はほとんどないのだ。
そして連続性がないからこそ、選択肢などといったものも実際には意味をなさないのだ。
自分が世界と世界とのずれをうまく感じることができないのは、そのためではあるまいか――。」
満州の動物園の主任獣医だった彼は、人間を襲う危険性のある動物たちが兵士達に射殺された後、未だその実感も湧かずにただ疲れた頭の中でそんな事を考えます。
彼はまた「自分という人間は結局のところ何かの外部の力によって定められて生きているのだ」という宿命的諦観を抱いている人物であります。
彼自身は生気に欠ける受動的な人間ではなく、寧ろ決断力のある人間なのですが、自分の意志によって決断した事でも、あとになってみればそれはあくまで「自由意志」の形にカモフラージュされているだけで、常に運命の都合通りに「決断させられていた」と思い知らされていたのです。
そしてこのような考えは作品全体に貫かれているように思いました。
私自身、何度かこのブログの日記でも「宿命」という言葉を使いましたが、彼の考えた事は私の言った事とその点はほぼ一致していると言っていいと思います。
私の教授の指導教授が言っていた自己矛盾的な言葉もあるいはここにあるのかも知れません。
しかし、この物語の真骨頂は言葉で説明されない、暗示的なメタファーに満ちた部分なのでしょう。
そこにどんな意味を求めるのか、求めないのかは読者の自由です。
例えば六歳のシナモンが夜中に庭で目撃した二人の男。そこで木に登っていったまま戻らなかった一人の男と、スコップで穴を掘り何かを埋めた男。
彼らは一体何者なのか。
そして「もう一人のシナモン」が男の埋めた穴を掘り返して発見した心臓。
それは一体誰のものなのか。
読者は例えば後に殺されたシナモンの父の心臓を暗示していた、などと想像することは出来ますが、はっきりとした事は明示されていませんし、シナモンの父自身の凄惨な死もまた謎に満ちたものです。
しかしここで敢えて説明をする事自体、不自然な事であるように私は思えます。
私はこれを読む前に、「
ノルウェイの森」を読んでいたので、笠原メイのようなあけっぴろげな感じのするキャラには「ノルウェイの森」緑にある種の共通点を見てしまいます。
あと、村上さんは井戸が好きなのでしょうか。
「ノルウェイの森」でも井戸の話が出てきたりしたので、作者は作中の人物と同様に何か井戸に対して特別な感慨のようなものを抱いているのかも知れません。
ついでに言うと、私は「ノルウェイの森」ではハツミさんが大好きでした。
勿論、直子も緑もレイコさんもそれぞれに魅力あるキャラですけれど。
本作品はタイトルだけを見ると何だかファンタジー物と間違えてしまいそうな印象ですが、
これも一つのファンタジーでRPGかも。
私はそんな村上ワールドにどっぷり浸かっています。
今度は「
世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読む予定です。
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追記。
私は小説では多くの人と同じ様に主人公を自分の分身として物語に入っていくので、読んでいる間は「僕」視点で周囲の事物の方に注意が払われています。
だから読了した直後は何も書けなかったのですが、私は今回、この作品の主人公、岡田トオルという人物に感心したことがあります。
寧ろ惚れたと言ってもいい。
それは妻クミコへの愛を貫いたこと。
これは村上作品によく見られるのですが、主人公は一見あらゆる物事から一定の距離を置いて接していて別にどうでもいいよって感じに構えているように見える。
台詞といい、文体といい、淡々としているのでそんな風に見られます。
しかし、本当はそうじゃないという事は、彼の行動を見ていると解ります。
家を出て行った妻からそれなりの理由を提示されて、もう別れて欲しいという手紙を受け取っても、それが本心であると信じずにあくまで自分なりの方法で「真実」を突き止め、彼女を取り戻そうとする。
「何故なら君を愛しているから」
そんな台詞はどんな小説でも映画でも見られるでしょうが、彼が口にすると非常に真摯な心から出てきたものなのだな、と痛いほどに思えるのです。
これが恐らく他の作家の描写だったり、何処かのハリウッド映画だったりしたらこれほど心を打つことはなかったかも知れません。
クライマックスの208号室での会話には彼の揺るぎない意志が感じられます。
「今度はどこにも逃げないよ」と僕はクミコに言った。「君を連れて帰る」
私はここまで愛されたクミコは幸せだよなぁと思ってしまうのです。
この話の「結末」がどうであれ。
きっとこんな人はいるようであんまりいない。